読むこと、書くこと、締め切り

読書はできる。出来ているほうだと思う。

しかし、書くことは、それほどできていない。

なぜか。

以下、ひとつの仮説である。

1:読書と書くことに関係がないから、関係づけて考えること自体が無意味である。もし関係があるとすれば、世の中に、書くことができる人がもっとたくさんいるはずだから。

2:読書と書くことは関係がある。よく読む人は、よく書ける人になれる気がするからだ。または、よく読むことなくして、よく書ける人になれるはずがないと思うからだ。

仮説1と仮説2を比較検討する。

どちらがより因果関係、相関関係が高いと言えるだろうか。

ここに、もう一つ別の観点がある。

それは、締め切りだ。

一般に、読書には締め切りがない。

また同様に、一般に、書くことにも締め切りはない。

仮に、締め切りを設けるとする。

すると、読むことも、書くことも生産的な行為となる。

読むことが生産的、とはどういうことか。

ある日時までに、ある量の文章を読み、理解し、自分なりの考えをまとめる、それを何らかに生かす、ということである。

一方、書くことが生産的、とはどういうことか。

ある日時までに、ある分量の文章を書く、ということである。

こう考えてくると、読むことも、書くことも、実は締め切りを設けると生産的になると言える。

逆に言えば、締め切りのない読書は趣味であり、消費であるということだ。

同様に、書くという行為に関しても締め切りがないのであれば、それは趣味であり、消費的な行為でしかないとも言えるだろう。

普段、何かしらの作品を生み出したい、しかし時間がない、忙しいと自分に言い訳をしているように感じる。大いに反省せねばならない。

自分が何かまとまった作品を書けないのは、時間がないのではなく、もしかしたら締め切りがないためかもしれない。

締め切りとは、制約だ。

書くのは自由だ、と思っていると、結局何も書けない。

時間的な制約があるからこそ、人は頑張れる。

制約がない自由を与えられて頑張れるのは、おそらくごく一握りの強靭な意思の人間だろう。

ということで、このブログにも何らかの制約を設けたい。


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